千足観音 8月23日

---本日は学芸員赤ペンが先---------

 

全身を黒く包んだ若木が、インクをつけた足を畳におろす。ついた足跡のかかとから黒い1本の紐を伸ばしていく。無言のまま、1日中延々とその行為を繰り返す。畳の上には無数の足跡が残され、それぞれから伸びたおびただしい数の紐が一箇所に集められる。

いつもはくすくすわらいにつつまれる若木の展示スペースであるが、今日は立ち寄る来館者も声を発するのがはばかられるほど、緊張した空気が漂った。

一歩一歩。一つ一つ。時間がかかるその一つ一つの行為を愚直なまでに繰り返す。

 「千足観音」というのが本作品のタイトルである。

超長距離ランナーでもある若木は、「足」への関心が非常に強く、今回の制作道場の中でも、足を題材にした作品を複数制作している。(「水墨画(タコによる)」「水墨画(イカによる)」)若木はつい今年の春に、250km161km520kmの超長距離レースを、間に数日あけたのみで連続して出場し、完走。この無謀な連続挑戦自体が史上初、まして完走するという前人未到の記録を持つ。

2kmも走る自信がない筆者には全く想像を絶する世界であるが、それでも、走ろうとする自分の意志と物体としての足が距離を重ねるごとに乖離してくるだろうことは想像できる。痛みや疲れによってだんだんと動かなくなってくる足。聞けば、超長距離を走っていると、爪をはがすこともあるらしい。歩くのもままならない足。それでも意志はゴールを目指す。きっと、「こんなとき足がもう一つあったら・・・」と切望するに違いない。

そんな過酷な経験から生まれた「千足観音」は、たくさんの足を持つことへの憧憬から生まれた作品である。自分につながる無数の足。足跡は前へ前へと向かう。揺らめく細い紐が、コントロールできないもどかしい肉体とコントロールしたいと欲する意思を結ぶよすがなのである。

前に進みたいという欲求とそれを絡めとろうとする現実の肉体との間に生じるジレンマ。精神と肉体のジレンマは、きっと走るときだけでなく、制作においても、日常を生きるにしても、誰しも必ず抱えているものだが、しかしそんな思い通りにならない肉体があるからこそ、私たちは感じ、考え、想像するのである。

 「千足観音」は、肉体としての「足」をモチーフにしたものであるが、若木が思いを込めるようにゆっくり1つずつ足跡を写し取り紐でつないでいく姿を見ていると、足跡が単なる足型ではなく、若木自身の「歩み」を象徴しているように思えてきた。数え切れないほどの無数の出来事とおびただしい時間の積み重なり。そのどの一つが欠けても今の自分ではなかっただろう。楽しいことうれしいこと、つらいことや悲しいことや失敗や挫折、語るほどのエピソードもない日常の積み重ね、それにまつわるさまざまな感情。足跡から伸びる細い線がすべて自分へと集約し、今の自分を形作っていることを象徴する。その反面、自分を作ってきた足跡は、自分とは切り離せないしがらみでもある。振り払いたくても振り払えない、自分を絡め取るもの。あるいはそのままいつまでもすがっていたい栄光。自分へと集約してくる線はのがれられない過去の象徴でもあるのだ。

そして最後に、1点に集められた紐を身にまとった若木は、その紐を11本、決別の念をこめるようにしてはさみで切り離していった。11本。しんとした中でその手から離れていく線。一歩前に進むために、前進すると決意するために、振りほどいていくこれまでの自分。作家として立つための意思の表明でもあったろうし、一人の人間としてゆるぎない自分でありたいという表明でもあったろう。

 夕暮れの光の中、静かにはさみを入れ続ける姿は非常に胸を打つものであった。薄暗い館内で若木の周囲は、何かが揺らぎのぼるような気配に包まれていたと思う。実は「千足観音」が完成したのは閉館後で、最後にはさみを入れるパフォーマンスを見ることができたのは私一人。ヒグラシの声を遠くに聞きながら、一人の作家の、一人の人間の、ある一つの決意を表す表現に立ち会えたことは、私の心の中に確かな空間を占めて残り続けるに違いない。

 

坂本善三美術館 学芸員 山下弘子

 

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