人を食ったような 8月24日
わたしが以前日記に書いて全方位から大顰蹙を買った「食の細い年配者」発言ですが、2週間たった今も善三美術館で働く方々の怒りはおさまっておらず、ことあるごとに「どうせ食が細い年配者ですから〜」と嫌みを言われています。更年期なのかな? スタッフの江藤さんに至っては、「食が細い」にちなんだ企画書まで寄せてくださいました。「食が細い(スタッフ一同)」→「食が太い(くるみちゃん)」→「人を食う」という連想です。
今日は、わたしの人を食った失言が企画に華麗に変貌を遂げた、その名も「人を食ったような」です。
そっと近づいて
人を食う
ぺっ
制作風景。
ベースは、ルンバの円をくり抜いたダンボールです。
歯はホタテ。
人魚プラン時に北海道の親類からたくさん送ってもらったホタテ貝。制作道場には「材料は小国町内で調達できるものに限る」という掟があるのですが、郷土から陣中見舞いが届いたと言い張りました。
真っ赤な唇は倉庫の隅で眠っていた絨毯。数年前この美術館の開館記念式典を華やかに彩ったレッドカーペットです。善三夫人も歩いたというありがたい絨毯にはさみを入れました。人を食ってます。
発案者、江藤さん。
江藤さんの施しの精神はものすごく、わたしは小国に来てからお米や野菜や、お弁当から調味料まで、ありえない量の物資を受け取っています。自分の体の3分の2は江藤さんで出来ていると思う。江藤さんに食わせてもらっているんです。
食わせもの!
記念写真には人を食った顔で写り込みます。
右奥に虫歯
人の気配を察知して
口を開けて待機
ぺろっ
餌食になった親子
裏面は歯茎がくっきりです。両面とも口になっています。この顔のモデルは食が太いわたしなので両面に顔がある設定でつくりましたが、表は口で裏は肛門にしてもおもしろかったなと思います。
今日は午前中ファミリー教室があったので、愚鈍なガキがホタテにひっかかって怪我をしないよう、下の歯は抜きました。
一昨日から写真がアップロードできず、日記の更新が止まっていました。古いパソコンのせいにしていましたが、無料でアップできるデータの許容量を超えていたのが原因でした。制作道場も残すところあと一週間だったのですが…。悔しいけどどうしようもないので泣く泣く有料プランに変更。金で問題は解決し、今までの苦労が嘘みたいにサクサク添付できています。快適! 最初からこうしておけばよかった。腹立たしさ半分うれしさ半分です。せっかくなので今日の賑わいを不必要に大量投下します。
以上、ファミリー教室の模様でした
食の細い山下さんです
ようこそ善三美術館へ
出たり
入ったり
出たり
入ったり
主語が自分の場合、吐いたり
食ったり
わたしが大きな顔と接続していないときは、これは誰の口なのでしょうか。
ここは道場の出入り口
ってことは、やっぱり道場主の口なのでしょうね
あっちでこっちで激写。
見事な歯並びです。
ファミリー教室のお客さまと。
震えるのどちんこ
見くだす子ども
モザイク処理で恥じ入りました。
続いてのお客さま。
左の方の脚がちっともあがらないのを見て
先ほど羽目を外したばかりの方の指導が入りました。
次はソロでタイツを着用していただきます
二枚舌
タイツを履くという羞恥的な格好に応じてくださった上、ブリッジまでしてくれました。人を食ったお願いをしてすみませんでした。でも、すっごく晴れ晴れとしたお顔でタイツに足を入れておられたのが心に残っています。アダルトな女装の世界が彼に向かって舌なめずりをしているようでした。
少年たちのあしどり
溌溂とした躍動です。
無限の可能性が口をあけて待っています
「 ルンバ」と「人を食ったような」の境界のダンボール
頭上でゆらゆらさせながら作品の相談に乗ってくださってます。人を食ってる。
昨日の千足観音は例によって後頭部にも顔があり、背中向きバージョンでも撮ったのですが、山下さんに描いてもらった顔がこれがまたあまりにも人を食っていたので掲載を見送りました。
後ろ向きに手を組んでいます。
…からだが後ろ向きのときも、足は必ず前を向いているってことだったんだっけ?
言えばなんとでも言えそうなシリアスな空気をぶち壊した観音像。狂った頭身
日記、ソロ活動させてごめんなさい! 後頭部から足の先っぽまで、山下さんにすっぽり食われている制作道場です。 山下さんの口腔で噛みしだかれてわたしは幸せです。
---本日の学芸員赤ペン---------
昨日のしずかな作品から打って変わって楽しい作品。昨日残された無数の足跡も、今日はにぎやかさを醸し出すアイテムになっていました。見方によって、というか、演出によって変わるもんですね。
今回の作品は、ポップな唇や歯によって食べたり食べられたりするところが文句なく楽しいところでした。有料化して無数に挙げられた写真がその楽しさを如実に物語っていますね。
そして出たり入ったりの楽しさはもちろん、あの口によってフレーミングされた視界がとてもおもしろかったと思います。いつも見慣れた館内の風景が、フレームをとおすことによってこちら側とあちら側に分けられ、フレームの向こう側の世界をどこか自分とは切り離された世界のように、神様視点で見られるところが新鮮でした。ちょっとしたシンプルな装置なのに。おもしろいですね。カメラの方たちはこのおもしろさに惹きつけられているのかもしれないなと思いました。
足跡も、不思議なくらい調和していて、口の中から外へとつながる足跡は、まるで腹の中から外へ生き生きと開放されているかのようだし、隠し持っていた秘密が漏れ出たみたいでもあるし、いくらでも深読みできそうな取り合わせでした。人体に関係あるものだからかな。
人を食ったような深読みといえば、千足観音の裏面。
千足観音のときは、後ろの顔に観音像があったのです。くるみちゃんの本体が前に進む決意を込めて足跡を後ろに引き連れているときは、足跡と向かい合う観音像がそれを慈悲の心で受け入れ、くるみちゃん本体が足跡と向かい合っているときには、自らの過去と対峙・決別するという2重の構図を持ち、見る人の思いによってさまざまに解釈されるものでした。
そのはずが、私が描いた観音像があまりのことで、顔の大きい変なレゲエのおじさんみたいになってしまい、昨日あんなにかっこつけた感想文を書いたくせに、本当は、後姿の写真撮影の時にはおかしくておかしくて、手が震えて写真が撮れないほどだったんです。
台無し・・・。他力本願寺のときはもうちょっと上手だったんだけどな。
坂本善三美術館 学芸員 山下弘子