円 8月28日
硬貨のように表面がでこぼこした物の上に紙を置き、鉛筆でこすって表面の模様を写し取る技法をフロッタージュといいます。
10円玉のフロッタージュ。
お札の透かしも、鉛筆でこすると人の顔が浮かび上がってきます。表面が微妙にでこぼこしているせいです。
これは、わたしの代表作『面』です。みんなに好かれるにはどうしたらいいだろう、考えた末導き出した答えは「お金になる」でした。身も蓋もないというか、俗物ですみません。この作品の印象から、わたしは「お札のひと」、「後頭部のひと」などと周囲に認識されています。ただ、自分としてはお札と後頭部の組み合わせは今ひとつだった、という反省を持っていて、「お札と後頭部」より、例えば今回の制作道場3日目の、「額縁と後頭部」のほうがずっとよかったと思っています。
今日は積年の、「お札と後頭部」のリベンジ企画。
タイトルは『円』。
目は50円玉(×2)、鼻は10円玉、口は5円玉。
目鼻立ち 全部合わせて 115円。(一句)
百十五円札。
わたしの価値は、自動販売機の缶ジュースがぎりぎり買えないくらいのお値段です。
お札のベースを千円札にしたわけは、野口英世が欲しかったから。
口が五円で、五口英世。
わたしの後頭部の硬貨のでこぼこを使って、お客さんには冒頭のフロッタージュ技法を体験していただきました。
鼻をこすってもらいます。
写し取った10円札。
てびき『4』の10円記念はチロルチョコのはんこのこと。フロッタージュした10円札にチロルチョコの版を押してお渡しします。
しかしこれはただ見た目がかわいいだけのサービスで、そんなに意味があったとは思えない。はんこよりむしろ、てびき『5』の、美術館内で使用できる10円紙幣になる(グッズを10円値引きする)、というほうがおもしろい、と思ったのですが、金券として使ってくださる方はいらっしゃらず残念でした。グッズの売り上げにも貢献して、山下さんに褒められたかったのですが…。
話はまだ終わりません。
10円硬貨を繰り返し繰り返しフロッタージュしていると、でこぼこ模様の草かんむりはおさげに、中央のリボンは髪飾りに見えてきました。
フロッタージュした10円の髪型に、自分の後頭部の顔を描き加えました。
硬貨を裏返すと、広がる景色は立派な日本家屋。わたしの目に、この寺院はもう善三美術館にしか見えません。
制作道場のチラシを再現。遠景に美術館。
山下さんにもうまく説明できなかったことを書ききれるわけもなく、寝言みたいな文章になってしまいますが、自分の後頭部の10円玉の中に制作道場がつまっていて、自分の顔の中にも10円玉がつまっていて、そこは道場そのもので、お札の中にも自分がつまっていて、みたいな、すべての要素が行き来するイメージ…。
10円硬貨を模した正面。
昭和60年。生まれた年です。
思えば遠くへ来たもんだ。
後頭部の硬貨すべて60年度製にしたいとくだらないことで騒ぐと、善三美術館スタッフチーム「+zen」が全精力を傾けて探してくださいました。
10円と5円は見つかったのですが、50円玉は見つからないまま。何やらスタッフさんが密談していると思ったら、「9時におみクジ!」とか言って開館時間の9時ぴったりに銀行へ繰り出され、戻ってきたその手には50円玉のタワーが何本も。両替した50円玉の中から、だれが60年度を当てるかという「クジ」だったようです。なんか、わたしのおかげでみんなたのしそうでいいですね。と思いましたが、61年度とか59年度とか、ニアミスはあるのに60年は結局見つからず、ふざけんな、生まれ直してこいよ、という圧力を感じていたたまれなかったです。
..
60年生まれでごめんなさい。
後ろ髪は英世っぽく左側にボリュームをもってきたり、正面は前髪を編み込んでおさげをつくったり、ヘアメイクも神がかっていて、+zen様々でした。
炎に包まれているような一枚。光源はもちろん「+zen」。閃光を受けて、お札ともども即燃え尽きてしまいそうです。
---本日の学芸員赤ペン---------
このお札を使った作品は、割と早い段階で企画書が作成され、いつ実行するかタイミングを図りつつ、細部をどうつめていくかというところでストップしていました。また、お札を作るという作業、当然時間がかかるもので、開館時間から閉館時間まで美術館に拘束され、夜家に帰ってからも凝った日記を書き、翌日の準備もしなくてはという過酷な制作道場では、なかなかくるみ氏の制作時間も限られ、いつお札を作ることができるのかということが全てのタイミングになっていたのかもしれません。
写真をご覧になってもお分かりのように、お札は太郎賞作品ほどの描き込みはないにしても、省略した表現ながら非常にお札らしかったし、パフォーマンスをするときの細部の小道具のこだわらなさに対して、いざ絵をかくとなると非常に細部にこだわるところがおもしろいなと思いました。
そして、後ろの顔をお金で作るというのも初めての試みだったろうと思いますが、丸の空いた50円玉や5円玉が、手で描いては得られないとぼけた表情を作り出していました。さらに鼻となった10円をフロッタージュしてお札にし、ミュージアムショップで使える10円札を作るという来館者のアクションを誘う仕掛けもあり(10円札使った人はいなかったけど)、みなさん、おずおずと後ろの顔フロッタージュにとりくんでくださり、楽しんでいただけたのではないでしょうか。
が、私はどうしても「・・・で?」という感想を拭い去れない。
後頭部にお金で顔を作りたかったのと、そこから生まれた五口英世を言いたかった以上のものが浮かばない。
決して悪くはないのだ。絵としておもしろいし、作品として完成してるし、来館者とのコミュニケーションもとれるし。
画家に「どうしてこの絵を描いたのですか」と聞くのがおかしな質問であるように、「何でお札なの」と聞くのは野暮なのだろう。画家は描きたくて描くのだし、絵に描かれているもの以上の意味はない。それで平和を訴えるわけでも自然美を訴えるわけでもない。それは勝手に見る人が後付けすることに過ぎない。
くるみちゃんもこの作品がやりたかったのだろうと思う。作家はやりたいと思ったアイディアをこの世に形として現せばいいのだ。この作品でもたくさんの「おもしろい!」と思ったものを組み合わせたのだろうと思う。でもその一つ一つのおもしろいと思ったものが、無理やりストーリー付けされて一緒に組み合わせられているような気がする。もしくは、決められた範囲の中でストーリーを作り出すためにおもしろいと思うものをなんとかして見つけ出したようにも思う。
「何でこの作品を作ったの」という質問は、強烈におもしろい作品の場合は頭に浮かばない。
細部もよくできていたし、べつに悪くはないのだけど、理屈を求めたくなる作品だったというのが私の感想です。
坂本善三美術館 学芸員 山下弘子