前向きな後ろ向き  9月3日  二夜明け

今、手伝ってくれた友人から小国での滞在について「人生でも指折りの夏でした」とメールがきて、とっさに「指折りの夏」って企画アイディアに使えないか考えている自分がいました。ひと呼吸置いて、もう制作道場は終わったことを思い出し、その止まった呼吸の瞬間自分が死んだ気がしました。

あわてて深呼吸をして、生き返った。自分の深呼吸の鼻息の風速にたじろぎました。

 

前回、Tシャツに染みついた絵の具の話で終わってしまいましたが、もう何を書きたかったか思い出せません。

 

選択肢1

顔は消えても、体に痕跡が残る。思い出は完全には消えない。

選択肢2

顔が消えると、洋服にシミが残る。他者から見れば薄汚い衣装も自分にとってはたからもの。

選択肢3

後ろの顔が流れ落ち、前面にも浸食してきた。うらおもてが融解している。自分はもうひとりじゃない。

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…ここまで書いたところで下書き保存したつもりが間違って公開してしまって、いちばんやばいところで何人かの目に触れることになってしまいました。

しかもそのタイミングで山下さんが前回記事に「感動巨編に続く」という煽り文句を載せていて、なんとも人を喰った短編になってしまいました。

 

選択肢のくだりはギャグです。特におもしろい解答例も思いつかなかった上、書きながらどうも薄ら寒かったのは、美術作品としてどうかとか、意味付けがどうとか、そんなことはどうでもいいとはっきり自覚したせいだと思います。

わたしはせっかく描いてもらった顔が消えていくのがただせつなく、行き場のないやるせなさでいっぱいでした。それぞれ異なる表情をいっしょくたに汚れに変えてしまう雨に憤ればいいのか、当初「たくさん顔を描いてもらえる!」と雨天を歓迎していた自分の自己中心的発想を呪えばいいのか。

わざわざ後ろ向きに走りたいからこそ、前にも進んでいたのに、後ろのわたしがいなくなっても前の自分は消えないというのは許せない気がしました。顔が消えたとき、わたしは何を思って走ればいいのだろう。皆の思いの成果がTシャツの黒ずみだなんて残酷すぎる。

 

ではわたしは、ゼッケンを背負えばいいのではないかと思いました。顔を描いてくれた人の名前を背中につけて、いっしょに走る。

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背中のゼッケンが溶けた顔の絵の具を受け止めてくれるなら、それは美しいことのような気がしたし、それぞれの名前を背負って走ることで、前向きのわたしの存在も肯定されるように思いました。

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また、書き終わらなかった…

すみません続きは山下さんが書いてくれます。

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---本日の学芸員赤ペン---------

 

いえ、書きませんよ。そんなバトンは受け取れません。

みんなが読みたいのはくるみちゃん目線のゴール。制作道場初日のタイトル同様、なかなか「ゴールできない」ですねー。期待も膨らみますねー。

 

さて。

後ろの顔は誰だったのか。

走りながらくるみちゃんは私に言いました。

「山下さん、私顔描いてくれた人の名前のゼッケンを後ろにつけてみんなと走りたいんですけどどうですか。」

そもそもくるみちゃんは、後ろに顔が描かれると、「私顔見なきゃ!どんな顔の人か!」と、その顔をデジカメで確認してから「その人として」走っていました。初めから後ろの顔の人と共に走っていたのです。それが誰なのか、もっと明確に目に見えるようになったのは、その顔を描いた人の名前を書いたゼッケンをつけるようになってから。前向きに走るときには「若木くるみ」として、後ろ向きに走るときには「顔を描いてくれた人」として走るようになったのです。

それは、くるみちゃんが走りながら湧き上がってきた思いによるものでした。ベタかもしれないけど、感傷的に過ぎるのかもしれないけど、そこに思いを込めたいのならそうすればいいのだ。みんなと走りたいと思うならそうすればいいのだ。だいたい、苦しみながらも走り続ける姿を見せるということ自体が十分ベタだし、はたしてそれは美術なのかという問いは一考に価すると思うけれど、走り続ける姿によって何かを伝えることができると思うならそれは表現なのだ。

右手にバトンを持ち、「ジャッジャッ」と音を立てながら砂利の上を前向きに走る。正面に設置されたボードにチェックを入れる。バトンを左手に持ち替える。また「ジャッジャッ」と音を立てながら今度は後ろ向きに走る。砂利の音が消えるところまで走ったら、バトンを右手に持ち替えて再び前向きに走り出す。完全に言葉で記述できる行為です。でもどこにたどり着くわけでもないこの無意味な行為の繰り返しが、見ている私たちの心の何かを確かにかき立てる。「美術作品としてどうかとか、意味付けがどうとか、そんなことはどうでもいいとはっきり自覚した」とくるみちゃんが書いているように、そこに立ち現われてくるのは、決して意味を排除したミニマルな行為ではなく、息を荒げながら、足を引きずりながら、ずぶぬれになりながら、それでも目を上げて走り続ける、生な人間の姿なのです。それが私たちをどうしようもなく感動させるのです。がんばれと言わずにはいられないじゃない。

もちろん、この作品は確かに美術です。でも後ろ向きの象徴がどうだとか言ってる場合じゃないのです。だって目の前で人ががむしゃらにがんばっているんだもの。

 

くるみちゃんがこの日休憩したのは、顔を描きなおす間だけ。その間にマラソンのエイドのように水分や栄養分を口に放り込みます。

そんなにがんばっている人のためにエイドステーションに並んだ食べものは、アクエリアス、バナナ、チョコレート、梅干、こんにゃく寿司(いなり寿司の揚げがこんにゃく。わさびとシソでおいしい。)うまい棒、ロールケーキ、ナッツのケーキ、モチキビ(モチモチしたとうもろこし)、カップうどん、カップ春雨、あったかいお茶、ゆで卵などなど。善三美術館スタッフの心づくしです。むせるだろうと思って冗談で買ったうまい棒をまさかおいしそうに食べるとは!

 

さあ、ゴールは見えてきたのか。

感動巨編いよいよ完結!か?

 

坂本善三美術館 学芸員 山下弘子