「前向きな後ろ向き  9月4日  三夜明け」への赤ペン

---本日は長すぎるので学芸員赤ペンも独立---------

 

ふぅ、、、姥捨て山から下山してきました。

意外と近くにあるんですね。知らなかった。

 

今日は赤ペンがあれこれ言うべきではないような気がします。くるみちゃんの日記が全てではないでしょうか。くるみちゃんありがとう。盛り上げてくれたワタリドリ計画、庄司さんありがとう。最後まで応援してくださった皆さま、ありがとうございました。

振り返ると、朝は劇的気分を盛り上げる土砂降りに始まり、ゴール時にはついに日も射すという、天気までも演出に加担してくれた最終日。あれから1週間たとうとしている今でも、思い出しても涙が浮かぶ感動のゴールでした。

ところで今日(7日)、息子の小学校の運動会だったのですが、子どもたちが全力で走ったりがんばったりする姿はどの子もいちいち感動的で、リレーを見ては泣き、組体操を見ては泣きしてきました。食が細くなって以来すっかり涙腺もゆるくなっちゃったみたいです。そしてふと考えました。くるみちゃんのゴールの感動と運動会の感動は別なのかしら。一緒なのかしら。

美術と運動会とは別物です。これ(芸術の領域)についてはいろんな方が長い論文で証明してくれているはずです。でも、そのときの心の動きの違いについて書いている人はいるんだろうか。美術を見て沸き起こる感動と、運動会を見て沸き起こる感動は別の種類のものなのだろうか。美術専用の感動ってあるんだろうか。

私は思います。毎日毎日の小さな心の動き、例えば、朝日がまぶしいとか、空気が冷たくなったとか、ご飯の炊けるにおいがしたとか、道端に小さな花が咲いていたとか、今日は遠くの山まで見えたとか、あの子と目が合ってうれしかったとか、漫画読んで泣いたとか、雨のにおいがしたとか、そういう小さな心の動きが心の引き出しの中にはたくさんたくさんしまいこまれていて、作品を目の前にしたときに、その引き出しがぱーっと開いて、様々な物が絡み合って、そのときの様子や空気の感触まで一気に立ち上ってくるのではないかと。つまり、美術を見て沸き起こる感動は、決して美術専用のものではなく、普通の毎日の小さな感動(あるいは大きな感動)の積み重ねなのではないかと。心の引き出しをどれだけたくさん、どれだけ深くまで開けてくれるかが、その作品の持つ力なのではないかといつも思っています。中には分類もせずに、気づかないうちに引き出しにしまわれているものもあるでしょう。そんなものが複雑に絡み合いながら立ち上ってくるのが想像力の源なのではないでしょうか。

運動会でがんばる子どもを見ても、くるみちゃんのゴールを見ても、きれいな夕日を見ても、私の心の引き出しはたくさん開くのです。むしろ、くるみちゃんのゴールは、芸術がどこか遠い殿堂にあって、感動するには黄金の引き出しを開けなくちゃならないものではなく、芸術は作家にとっても見る側にとっても日常の延長の中にあって、毎日使っている引き出しで感動するものだということを、改めて気づかせてくれたように思います。

 

結局長くなっちゃう赤ペン、長くなりついでにもう一つ。

 

くるみちゃんの後ろの顔について、私はこれまで、前の顔は当然自己(くるみちゃん)の象徴で、後ろの顔は他者(あるいは別の人が見たくるみちゃんのイメージ)の象徴だと思っていました。でも前後の顔は渾然一体だというくるみちゃんの日記を見てハッと気がつきました。

そもそも「これこれこうだ」と言葉で描き出せるような自分自身なんてものはなく、他者とのかかわりの中で、その中間に立ち現れてくるものこそが自己なのではないか。世界の中に放り込まれている私たちは、さまざまな人やものとのかかわりの中で、はじめて自分が何を考えているのか、自分がどんな人間なのか、そんなことがぼんやりと浮かび上がってくる。しかしそれをしっかり言葉で救い上げようとすれば、その瞬間には、そんな自己なんていうものはふたたび何が何なのかわからなくなってしまう。そもそも最初からそんなものがあったのかということすら判然としなくなってしまう。

くるみちゃん自身が言葉でこういうことを表現しているわけではないと思いますが、作家の感性が「自己」のあり方を直観し、そんな世界のあり方、世界の中の自分というものを表現しているのだなと感じました。

それなのにあんなにおもしろいってどういうこと!?ですよね。恐るべき麻薬です。

 

さて、制作道場反省日記もいよいよゴールとなりました。

これまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。

もう1回ずつ、くるみちゃんと私が全体を振り返って幕を閉じることとなりそうです。

もうしばらくお付き合いください。

 

 

坂本善三美術館 学芸員 山下弘子