うしろ手の顔 8月31日
台風の暴風雨で散った制作道場のポスター。
今日は、去年善三美術館で展示した友人たちが来てくれるはずの日です。何日も前からスタッフ全員で台風警報とにらめっこして、東京からの飛行機が欠航しないよう願っていたのですが、汚泥にまみれたポスターが不吉でした。
今日も昨日に引き続き、庄司さんにうしろの顔を描いてもらいました。
閉じたまぶたは、「目は使わない」という今日の意思の表れです。
本日の企画、『うしろ手の顔』。
うしろのわたしが、うしろ手で自分の顔を塑像します。
正面の顔に触れ、指先で感じ取った凹凸を粘土で再現。視覚の情報に頼らず、触覚だけでかたちを探ります。
顎、唇、鼻、目、眉、額、耳。
手がみつけた情報を粘土にひとつひとつ伝えていきます。
うしろの顔は平らなので、頼りは正面の顔の凹凸です。
手の平、指の腹で、なぞったり包んだりして顔の造形を読み取ろうと努めましたが、いくら触ってもかたちが現れず苦心しました。
なぜかと思えばなんのことはない、自分の顔のつくりが平板すぎるせいでした。わたしは目から頬にかけての起伏がまるでない上、顔面中央では鼻が圧倒的な低さで鎮座しています。鼻のてっぺんと唇と顎に至っては、ほぼ同一線上で結べるというかなしい安定感です。彫りの深い外国人だったらかたちもつかみやすいのだろうと思いますが、ない凹凸を懸命にまさぐっているわたしの姿を美貌の彼らに見てほしいとも思いました。
粘土像は一度も目で確認せずに作業を進めるため、どこで終わればいいかわかりませんでした。観客の「もうやめたら?」のひと言で、迷いながら手を離しました。絵を普通に描くときですら完成を決められないのに、目を使わないで止め時を見極めるのは至難の業だと思いました。
4時間こねくりまわして、初めて振り向きます。
いびつな頭部でした。
薄い横顔は似ています。
うしろの自分同士
出来上がった粘土像は、思ったよりもずっと人間らしくなくてショックを受けました。
わたしは正しく写実できた気でいたのですが、わー、甘い!というのが正直な感想でした。途中段階で山下さんが「わたしこの像買いたい…」と珍しく好評価を与えてくれていたのですが、わたしは経過を見ていないからその顔はわからないし、絵も彫刻も、いちばんいいときはほんの一瞬なんだなあと思って悔しかったです。
出来上がりに納得できず、感覚を辿らず記憶と想像だけでもう一度顔をつくり直したいと山下さんに頼み込んで、再挑戦。
頬
目
鼻
眉
顎
「顔らしい、顔」。頭の中の自画像を粘土にぶつけました。
7分くらいいじくって、「出来た」と自信を持って振り向くと、そこにはより崩れた粘土の塊が。さっきの粘土像が失われた今となっては、奴にはちゃんと生命力があったように思い出され、また悔やみました。
自分の感覚を信頼できなかった自戒をこめて、父のそばに並べました。
たまたまそっくりだった緑色に因縁を感じます。
明日はいよいよ最終日です。
台風は消え、作家のワタリドリ計画も無事到着できました。
ラストは使えるものをすべて使って、ゴールしたいと思います。
---本日の学芸員赤ペン---------
「明日は後ろ向き(後ろの顔の正面)で粘土で自分の顔(前の顔)を作ります。」と宣言したくるみちゃんに、「それほんとにやりたいと思ってる?切羽詰ってんじゃない?」と詰問した私。
「目をつぶってやるのとどう違うの?」
「何で後ろでやるの?」
つまんないからやめろという意味でも、やる意味がさっぱりわかんないというわけではもちろんなく、何だか近頃企画の出も悪くなってきてる感じだし、ただ作りづらい後ろ向きでやる苦悩の姿を見せるだけだったら、鑑賞に耐えるわけでもない中途半端な像ができて終わりということになってしまう。その行為で何か立ち上ってくるのか。くるみちゃんの根底に何があるのか。うるさい教育ババアみたいに一個一個コンセプトの指差し確認をしたのです。
本来、そんなことするものじゃないのかも知れません。作家がいちいちコンセプトを説明する必要なんてないのかもしれません。むしろ私が納得したかったのでしょう。くるみちゃんが言葉を尽くして(庄司さんの助言に助けられつつ)説明してくれたコンセプトを聞いて、私の頭には一つのストーリーが浮かびました。
くるみちゃんの後ろの顔が象徴するのは外から見られたくるみちゃん像。前の顔が象徴する本当の自分は自分にしかわからない。後ろの顔とよく似てはいるが、別のものなのだ。でも自分にも本当の自分の姿がわかっているわけではない。後ろの顔(他からの評価)に至っては、自分では見ることもできない。しかも二つの顔は決して見合わせることはない。そんな中で、自分の本来の姿(前の顔)を手でまさぐり、その姿をがむしゃらに形にすることによって、よくわからない自分の姿の形を探したい。そしてそれを探りとった自分の姿として提示したい。
さて、このしょうもない陳腐なストーリーをどれだけ凌駕してくれるのか。
目を閉じて思索するくるみ像を後ろの顔に背負い、静かに制作が始まりました。
手で前の顔を探りながらその形を後ろ手に伝える。これまでにも感覚の伝達を作品にするという意味では、後ろの顔が感じた触覚を紙に描きとる作品を数多くやってきたけれど、今回はまず立体であるという点で大きく違う上に、自分では写し取るものはもちろん写し取ったものも見られない。しかも手が天地逆さになるという不自由さもある。
分類大好きで先入観と強力タッグを結びやすい視覚を絶ち、天地逆になることで普段の視覚情報から触覚が憶えている大まかな形の先入観の再現も絶ち、形を感じ取るのも作り出すのも「触る」こと一点に委ねられる。
制作を始めたくるみちゃんは手指の感覚に忠実に身をゆだね、先入観に走りそうなところを押し留めて一つ一つ手でかたちを探っていました。口と耳の位置。唇とあごの位置。鼻と頬のつながり。顔の輪郭のかたち。実際に自分では見たことのない耳の造形に至っては、自分が知っている分類や意味をなかったものにして、まるで初めて出会ったものであるかのように、指が触った襞の一つ一つの再現に忠実であろうとしていました。
そして、見ている側は、くるみちゃんが感覚に忠実であろうとしていることがわかるだけに、実際に現われてくる粘土の造形が視覚的にはズレていくことのもどかしさを感じます。しかし、そこにこそ、普段は見ることのできない、人間の奥深くに潜んで先入観に被いかぶせられている生(なま)の感覚を見ることができるのです。
芸術家は常に、そこへたどり着くことを、もしくはそこへたどり着いて得たものを生(なま)のまま地上へ現すことを目指しているのかもしれません。
私たちはいかにものごとを知ったつもりになっているのか。知ったつもりになって、目を向けることや感じることを忘れているか。何とか自分の生の感覚で探り採ろうとするくるみちゃんの姿と、いびつにゆがみながらも確かにくるみちゃんが感じたものが現われているこの頭像は、私たちの感覚をも揺さぶり呼び覚ましてくれました。
坂本善三美術館 学芸員 山下弘子